2013年10月15日火曜日

復刻・「踏絵」 柳原白蓮 ながらみ書房

 「踏絵」 柳原白蓮
2008年10月15日 ながらみ書房発行
大正4年3月 竹柏會出版の初版本の復刻。
佐佐木信綱序文、竹久夢二装丁

※旧字体に変換出来なかったものは新字体で表記してあります。

 大正三美人の一人と謳われた柳原白蓮は14歳で結婚、15歳で男児を産みます。その後東洋英和女学校へ入学、佐佐木信綱に師事し心の花に短歌を発表しはじめます。この歌集は白蓮31歳、二度目の結婚をした4年後に編まれた第一歌集です。

 
 「恋に生きた」といわれるとおり、恋の歌がほんとうに多い歌集でした。読み終えると恋はもうしばらく良いかな…と食傷気味に。それでも恋多き女性、という印象はなく、むしろ恋に憧れ続けた女性のように感じます。時代背景や、彼女の華族という立場では女性が自由に恋をすることは許されませんでした。恋という文字が使われてはいても、白蓮が求めていたものは自己を尊重されることや、互いを想い合う愛しさ、人としての尊厳を得ることだったのかもしれません。そのこともあってか恋の歌ではない歌に目がいきますが、次の二首には強く惹かれました。忘れないと言えばなお悲しい、失っても君に出会えたという幸福がある、自由に自分の人生を生きることも叶わない少女の憧れは恋に向かうしかなかったのかもしれません。

・忘れむと君言ひまさばつらからむ忘れじといはばなほ悲しけむ

・こともなく終へむわが世の運命(さだめ)にも君を得し幸失ひし幸


 そして自由に生きられないことへの閉塞感に蝕まれていく少女は、何不自由なく生活をしている自分を血縁を比喩するような美しい赤い籠のなかの鳥と揶揄し、理由もわからぬまま整えられた黒髪を乱して夜半に泣くのです。重い枷を負いながら、それでも彼女には空をあこがれる心がありました。

・何を怨む何を悲しむ黑髪は夜半の寢ざめにさめざめと泣く

・誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥

・わが足は大地につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空


 しかし、歌集の後半から、歌は次第に洗練されながらも、暗くより閉塞感をましていきます。母の傍らに侍っていた少女は女になり、これまでの枷に加えて「女」という枷にとらわれていることに気付くのです。それが当時の女の宿命であったのか、髪を整え、紅をぬり、大人しく暮らしながらも、少女の時代を弔う。その瞳には冷たい光がやどっていたように思えてなりません。

・心憂きこと言はれても情ぞと笑みてあるべき女のすくせ

・今日もまた髪ととのへて紅つけてただおとなしう暮らしけるかな

・うもれ果てしわが半生をとぶらひぬかへらずなりし十六少女


 そして最後の三首、どれほど苦しい日常だったのでしょうか。枯木のように心は痩せほそっていくのに、人の道としてそれを耐え続けなければいけない。今日も昨日も、そして明日も、変わらずに流れていく日々。柩のように冷たく狭い日々。決して恋に生きたという華やかな歌集ではなく、むしろ一人の人として自由に生きられない当時の風潮に傷つき苦しみながら、あたたかな夢をすべて恋という形式に託すしかなかった哀しみと切なさがそこにはあるように思います。

・冷やかに枯木の如き僞りを人の道としいふべしやなほ

・鴨川やわが來し方の過ぎし日と靜かに流る今日も昨日も

・眼とづれば吾身を圍む柩とも狭く冷たき中にをりけり


<おまけ>
 柳原白蓮はこの歌集を出版した3年後、恋に落ちます。当時はまだ姦通罪の残る時代、白蓮は文字通り命懸けの駆け落ち後、新聞に「公開絶縁状」を掲載。お金はあるけれども夫とその妾と三人布団を並べて眠ることもあったような生活から抜け出し、華族からは除名され、家族から何の支えも得られなかったために白蓮自身も働かなくてはならないような生活であっても、はじめて想う人と結ばれた晩年は平穏で幸せなものであったそうです。なんだかすこし、ほっとしますね。



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