「声、あるいは音のような」 岸原さや
2013年9月30日 書肆侃侃房 発行
岸原さやさんの第一歌集「声、あるいは音のような」は2006年から2013年までにうたわれた歌がほぼ編年体で並べられ、Ⅰは2006年から2009年まで、Ⅱは2009年から2011年、そしてⅢは2011年3月11日に起きた東日本大震災以降の作品から成っている。
岸原さんの歌にはひらがなが多いな、というのが最初の印象。それがやわらかな雰囲気とまるで小さな子どもがぽつりと呟いているような舌足らずさ、そしてゆったりとした時間の表現になっているように感じます。それから、岸原さんの歌はどれも視点が面白いなと感じました。一首目は主体が風そのものになって近すぎて水としか言えない浅瀬と、とおすぎて空としか言えない空。二首目、風をきみと呼んで擬人化しながら主体から離れて風が海につくころには自然の風としてとらえなおす。
・浅瀬から浅瀬へ渡る風の舟、うつむいて水、あおむいて空
・きみはもうとおい烈風パラソルを飛ばして海へなだれていった
街路樹にひとつひとつと数える棺や、薄闇のに「ほんとはね」と唇をひらこうとする子どものような舌足らずさがかえって甘やかな叙情をうみだしています。
・信号を待つ人ならぶ街路樹のひとつひとつに小さな棺
・薄闇に(ほんとはね)って言いかけて、ふっと(ほんとう)わからなくなる
生きている精神と、暮らしている肉体の解離性。作者が歌うのは「わたし」の内面世界であり、暮らしている現実とが別々に歌われることが多く、少し浮遊しているような印象がありました。私はその内面世界と外界とが触れ合う瞬間を歌った歌に好きなものが多いです。
・ゆびさきに小さな痛み生きているしるしのようだ唇を寄す
三月十五日、零時過ぎ。
・あたたかいまだあたたかいから耳の奥へ声さし入れる、おかあさん
社会の空虚さについて歌った歌も好きです。ぼろぼろと崩れはじめている国の末端にいながら「まほろば」とつぶやく空虚な絶望。現実世界での人と人とのつながりの希薄さ、まがまがしくさえ見える降る花がタイヤに踏まれていく様子はねじれた退廃的な美意識を感じます。そして共同墓地。私には、地球そのものが共同墓地であるように感じられました。
・ぼろぼろと崩れる国の末端でまほろばまほろばつぶやく真昼
・気付かずにすれちがうこと首都にいてぼくらは何もつくれなかった
・おびただしい読点として降る花をタイヤの黒がいま踏んでゆく
・僕たちは生きる、わらう、たべる、ねむる、へんにあかるい共同墓地で
<おまけ>
岸原さんとはじめてお会いしたのは「さまよえる歌人の会」。代表歌がすられた名詞をいただいて、まだ自分で歌人と名乗れずにいた私は圧倒された。その後も短歌をお休みしていた私のことを気にかけてくださって、飯田橋にあるcafeでお茶に誘ってくださったりした優しい方です。
歌集からはそれた話になりますが、出版元の書肆侃侃房の書肆は中国語で本屋、侃侃は侃侃諤諤からきているそうです。みんなでわいわい話しながら良い本が出せたら良いね、というところでしょうか。素敵な名前です。
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