「黒耀宮」 黒瀬珂瀾さんの第一歌集
2002年12月28日 ながらみ書房 発行
序文は春日井建さんが書いていらっしゃいます。
装画の美麗な男性、歌集のなかに使われている言葉の華々しさ、退廃的・耽美的な美しさとエロティシズムは現代ではあまり聞かれない言葉遣いともあいまって「黒瀬珂瀾」という人を、1人の生身の男性ではなくファンタジーやキャラクターを指し、あるいはひとつの仮面を作り出しているようにも感じられます。
・鶸(ひは)のごと青年が銜(くは)へし茱萸(ぐみ)を舌にて奪ふさらに奪はむ
・ジャン・ポール・ゴルチェのやうな夕焼けに溶けゆく奴をひそかに嘉(よみ)す
・曼珠紗華を蹴るごと歩む 我が恋を蔑む者のありて初霜
しかし、歌を読みすすめるうちに新たな自分像をつくりだしているのではなく、おそらく誰もが自分のなかに持っている未熟で自分だけは特別だと、なんの根拠もなく信じている自己像を描き出しているのではないだろうかと思いました。照れや気恥ずかしさを削ぎ落とし、自己像を他者から隠すのではなく、装飾し魅せる。自分だけでなく他者のなかの自己像にまで意識を拡大して、うなづいてやる優しさ。それは自己防衛の一つの手段でもあり、やはり美しさでもあるのではないでしょうか。
・天井ゆ紅き椿が降り来ると君が言ふならうなづいてやる
・わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を
・大衆に入りゆく覚悟にほはせて友は霜夜の麦酒をあふる
そんな美しい自己像を肯定するロマンティシズムを持ちながら、けれど現実を見る視線はあくまでもリアリスト。それでもてのひらに孔のある人、まるで復活したキリストの幻や、現実のなかの美意識を捨てきれずにいる柔らかな心を感じます。
・てのひらに孔(あな)ある人とすれちがひ見失ひたりこの繁華街
・吾(あ)が触れし耳翼ほのかにあからめて汝(な)にデボン紀の水ぞ流るる
自己も他者もそして現実も許容していく、許されることを待つ少年は、他者を許すことを知る青年へと羽化していったように感じました。
・音もなく二人で沈む湯船、また雨のなか運ばれゆく棺
・傾きてゆく回廊の封印(とづ)るとも咲いてはならぬ花などあらぬ
<おまけ>
こちらははじめて黒瀬さんにお会いしたときにしていただいたサイン。
歌を朗読される黒瀬さんの姿は、短歌のなかの艶やかさをそのまま背負っているような方でした。きっと「黒耀宮」はあのころの私のように、思春期の苦しみを抱えた人々を慰めてくださると思います。
・ささやかな地球に種(たね)が落つる夜の月が背中をなぞるひとり寝
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