2013年10月13日日曜日

「窓、その他」 内山晶太 六花書林

「窓、その他」 内山晶太
2012年9月25日 六花書林発行
※読みかたは「まど、そのほか」

 なんて明るい寂しさだろう、というのが読後すぐの感想。読みながら何度か涙ぐんでしまうほど哀しく、寂しくなった。寂しさにはいくつか種類があるけれど大別すればそれは他者が介在する寂しさと、他者が介在できない寂しさだと思う。
 

 「窓、その他」を読んでいて感じたのは後者の寂しさ。天から降る雨をささやかな檻ととらえる行き場のなさ、桜の花のように美しく儚い分かり合うという幻想、誰かのためにつくる表情を海の前では外してしまおうという孤独、そこでは私とは無関係に絶え間なく砂の風葬がつづいている。清らかな白い花に反射する光の明るい空虚さや人が生きていることそのものや、私が私であること、私という人間がたった一人しかいないこと、誰にも何にも埋めようが無いけれどそれは仕方のないこと、そのような寂しさのように感じました。

・軒下にたたずみながら見上げおり雨というこのささやかな檻

・分かり合うという幻想の絶景に胸ひらきおり桜花のごとく

・えごの木のしたたるばかり花みちてみたされぬ我が眸(まみ)は明るむ

・表情を外して立てる海辺(かいへん)にすずしく砂の風葬つづく


 長く長く生きて欠けているものがないようなほほえみの皺、親しみ深いチューリップの花を忘れてしまうまでの老い。この寂しさ、悲しさは鉱物の世界のようでもあります。完成されてしまった世界には、他者がはいる余地がないのですから。

・チューリップを忘れてしまうまで老いてゆくべし全きほほえみの皺


 それでもこの世界には他者がいる。私ではないあなたがいる、そのような愛しさも感じられました。泪の膜ごしにみえる私ではないたくさんの人々、深さがあるから濁ることもできる街、雑居ビルでは清らかなミサが行われているあたたかさ。透かしてみえるような昨日と今日の連続性、しかしそこには窓を通して別々の一万枚の風景があるように思います。ひらがなの「かなしめる」に悲・愛どちらの漢字をあてるかは、どの窓から私自身を眺めるかによって変わるのかもしれませんし、悲しいことも愛しいのかもしれません。何か話しかけてくるようにひかりの差し込む窓がある、そのことに心がなごむ朝があります。

・人界に人らそよげるやさしさをうすき泪の膜ごしに見き

・濁ることのふかさといえど雑居ビル四階のミサにこころ涵すも

生誕から一万日
・かなしめる昨日もなかば透きとおり一万枚の窓、われに見ゆ

・話すように朝のひかりの降ることをカーテン越しの中空(なかぞら)に知る


 最後の一首は誰かの介在できる寂しさ、どうであろうとも人と人とがつながっていく、手をつなぎ、微笑みあうような陳腐さが恋しい。私の持っている手もまた、あたたかく誰かとかさねるためにある。その手を持っていることが、あたたかいのかもしれません。

・どうであれ陳腐を恋えりあたたかくかさねるための手がここにある

〈おまけ〉
内山さんに今度お会いできたらサインをいただきたいです。

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